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小川三知、宇野沢ステンド硝子工場など、ステンドグラス史研究家田辺千代氏により研究が進められており、当サイト内の掲載年度等に誤りがあることがわかりましたが、現段階では修正及び情報の追加は致しませんのでご了承下さい。歴史的調査史料として転載希望の方には正式年度をお知らせ致しますのでご連絡下さい。 ↓小川三知の詳細は以下のサイトに別掲してあります。
日本におけるステンドグラスの歴史 明治〜昭和初期 「ステインドグラスは漸く西洋建築の盛んとなりし以来、其の需要を増すに至りしが、本品の我が國に傳来(伝来)せし始めは何れの時代なるか詳ならずとも、其の技術を傳(伝)えたるはおそらく宇野澤辰美(辰雄の誤り)なるべし。(明治工業史 化學工業編450ページより抜粋)」 日本におけるステンドグラスの歴史は、宇野澤辰雄による「宇野澤ステンド硝子工場」が始まりである。 ■明治19年 明治政府による臨時建築局の設置 <2/17〜23年3月> 明治18年12月廃省となった工部省営繕課に替わって次代の洋風官庁建設の中心となったのは、臨時建築局である。 臨時建築局は、来るべき国会開設に備えて、帝国議会議院建築(国会議事堂)をはじめ、中央官庁街を日比谷の地に建設するために明治政府が設けた組織である。
鹿鳴館 期間は4ヶ月という短期間ではあったが、これまで支配的であったイギリス系の西洋建築技術(コンドルの実地・教育の両面 での貢献が多い)と対立的に、ドイツ系建築技術が導入され、同時に技師・職工らのドイツ派遣留学による技術の習得・普及および煉瓦生産の本格化など、わが国の明治時代の西洋式建築技術導入の歴史上見逃すことのできない貢献をした。 ドイツより、ウィルヘルム=ベックマンが招かれる。 <4/28> 臨時建築局はドイツ政府に、建築家の推薦を依頼。ドイツ政府は、快く当時一流の建築家エンデ及びベックマンの両氏を推薦。 ベックマン、ドイツへ帰国 <7月> 「国会議事堂の自力建設」という政府の方針により、国会議事堂建設の原案製作にあたったベルリンのエンデ・ベックマン事務所の紹介で技術の収得を目的とし、20人がドイツに派遣された。 派遣団のリストは次の通り。(明治工業史建築編より抜粋) (略)ビョクマンは六名の職工を選抜してビョクマン貸費生となし、往復旅費及び在學満三カ年を負担せり。其の卓見と熱誠なりしこと夫れ此の如かりき。政府より派遣員左(注:原文は縦書き)の如し。 技 師 妻木頼黄 渡邊 譲 河合浩蔵
ビョクマン貸費生は次の六名なり 加瀬正太郎 山田信介 斎藤新平 宇野澤辰雄 以上正木工業學校長の推薦にして、加瀬は鍵及び煉瓦工、山田は飾工、斎藤は壁天井等の絵職、宇野澤はステインド硝子及びエツチング。何れも工業學校(現東京工大)の第一期卒業生なり。外の二人は、内藤陽三(美術家)清水米吉(建具職)にして清水は河合浩蔵の推薦なり。 是に於いて技師三名と高等職工十七名は、明治十九年十一月十六日出發して翌廿(20)年一月独逸に渡航し、各担當(当)用務を研究し、三年を経て明治二十二年帰朝し、諸工事の賽施に當(当)たれり。 (以上、明治工業史建築編187〜188ページより抜粋) 建築編では宇野澤とあるが、帰国後、養父の姓を名乗ったため、当時は旧姓の「山本辰雄」である。 宇野澤辰雄は、ベックマン貸費生としてステンドグラス・エッチングの分野でドイツに留学。ベルリン到着後はベックマン邸に入り、連日ドイツ語を勉強した。2ヶ月後、ルイ・ウェストファル工房にて技術を習得。毎日12時間の労働の後、夜はドイツ語の勉強も続ける。「此の間に於ける彼等の苦心賽に察するに余りあり(同書抜粋)」 ■明治23年 宇野澤辰雄、ドイツ留学より帰国(1/8) 山本辰雄は、帰国後、養子先の姓を名乗り、宇野沢辰雄となる。 ■宇野澤辰雄、ステンドグラスの製作を開始。 帰国後の明治23年、芝区新銭座4番地にてステンドグラスの製作を開始した。 明治27年 司法省 海軍省 その他多くの歴史的な作品を残す。 明治29年 裁判所(現在も東京・日比谷公園西に現存) 「此の建物に用ひたるステインド、グラスは独逸国に於いて 日清・日露戦争を経て、ステンドグラスの需要も次第に減少し、 宇野澤はポンプ業を開始。 宇野澤組鐵工所100年誌「ウノサワ100年の歩み」によれば、これは明治32年 しかし、宇野澤辰雄がステンドグラス業を廃業ではなく、ポンプ業と並行して営んでいたのではないかと思われる記述が、明治45年発刊の「建築工藝叢誌」の中で「丁々生」氏によって以下の様に書かれている。
■明治39年 宇野澤ステンド硝子工場設立 辰雄の養父宇野澤辰美、別府七郎・木内慎太郎と共に、史料に残る限り日本で最初の本格ステンドグラス工房である宇野澤ステンド硝子工場を設立 洋風建築も盛んとなり、宇野澤辰美、別府七郎、木内慎太郎の3人共同でステンドグラスの事業を経営。現在にも残る創世期のステンドグラスの名作が数多く製作され、次第に盛んになった。 明治43年 小川三知、小川スタジオを開業
明治44年 宇野澤辰雄死去(6/23) 大正2年 別府七郎、宇野澤より独立。京橋区入船町2丁目(現在の東京愛宕)に別府製作所を開業 大正5年 木内真太郎、大阪の末吉通り4丁目に宇野沢組ステインドグラス工場大阪出張所を開業 大正6年 「横浜開港記念会館」 大正8年 宇野澤辰美死去(1/7) 大正9年 国会議事堂起工(〜昭和11年)
大正11年 木内、天王寺南河堀町に移転(10年)後、玲光社大阪店と改名 昭和5年 松本三郎、宇野沢ステインドグラス製作所に入所 昭和12年 国会議事堂完成 昭和20年 宇野澤スティンドグラス製作所、戦災により解散 東京大空襲により新銭の工場が焼け、倉庫にあった道具・ガラスなどを全て消失。それに加え職人の離散や、戦災による圧倒的なダメージにより、自然解散となり、 昭和23年 「松本スティンドグラス製作所」創業 宇野澤の職人であった松本三郎は、戦後、宇野澤時代の職人に先駆けて、東京都中央区日本橋浜町2-44に「松本ステインドグラス製作所」を開業する。この社名は、先代松本三郎がいた当時の宇野澤の名称が「宇野澤スティンドグラス製作所」であったことに由来する。 その前にも後にも、宇野澤時代の職人が工房を開業することはなかった。 <現在の宇野沢のながれ> →小川三知につきましては、 |
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